ベン・シャーンは20世紀アメリカを代表する作家として、恐慌下のアメリカで貧困や冤罪事件をテーマとした作品を制作し、社会派作家としての評価を確立するとともに、出版、広告などの分野でも活躍しました。アンディ・ウォーホルなどの多くの作家達に多大な影響を与え、約一世紀の時を経ても色褪せないベン・シャーンの世界をご覧いただければ幸いです。
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🔶Ben Shahn (1898-1969)
[1898] 9月12日、リトアニア・カナウスのユダヤ系家族に生まれる。祖父、父は共に木彫師、母方の家族は陶工。
[1906] アメリカに移住しニューヨーク・ブルックリンに住む。
[1911] マンハッタンの石版画工房の徒弟として働きながら夜間学校に通う。
[1917] ニューヨーク大学入学、二年間海洋生物研究所で学ぶ。その後ニューヨーク市立大学に編入。
[1922] ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン入学。その他ニューヨーク・シティ・カレッジやアート・スチューデンツ・リーグにも通う。同年、ティエリーゴールドスタインと結婚。
[1925] ヨーロッパを旅行。パリに落着きソルボンヌ大学でフランス語を、アカデミーオブグランショで古典画法を学ぶ。この旅行中にリルケの「マルテの手記」と出会う。翌年帰国。
[1927] 再びパリに滞在し、モディリアニ、デュフィ、ルオー、マチス、セザンヌらの技法を研究する。娘のジュディス誕生。
[1929] ブルックリンで写真家のウォーカー・エヴァンスと知り合い、写真技法を学ぶ。(この出会いが後の社会派作家としてのきっかけとなる)
[1930] ニューヨークのダウンタウン・ギャラリーの「近代画家33人展」にドリュフェス事件をテーマにした作品を出品。4月に初めての個展を同ギャラリーで開催。もっとも、この頃の生計は商業石版画の制作でたてていた。
[1931] 最初の芸術版画としてトマス・ド・クインシーの物語に挿絵をつけた「レヴァナとわが悲しみの聖母」(10枚組ポートフォリオ、リトグラフ)を出版。またハガダー典礼書のための12点の水彩画を制作(後にパリで出版)。
[1932] 33年にかけて「サッコとヴァンゼッティ事件」をテーマにしたシリーズ23点を制作、大きな反響を呼ぶ。
[1933] 世界恐慌による不況下のアメリカで、ルーズヴェルト大統領によるニューディール政策に基づき多くの壁画の制作を手がける。ロックフェラーセンターのRCAビルのフレスコ壁画制作にディエゴ・リベラの助手として参加。
[1934] 画家であり文筆家のバーナーダ・ブライソンと結婚。
[1935] 再入植局に職員として招かれ、再入植ファイル(写真による地方の貧困状況記録)作成に協力。約6000枚の写真を撮影する。この写真が後のシャーンの制作において重要な素材となってゆく。
[1942] アメリカ政府機関、戦時情報局のグラフィック部門に所属するも翌年、多くの作家、美術家たちと辞職。
[1947] イギリス各地で個展開催。ボストン美術館夏期講座で講師を務める。
ニューヨーク近代美術館で回顧展開催(翌年にアメリカ8都市を巡回)。
[1948] 写真誌「ルック」にて10人のベストペインターの一人として取り上げられる。雑誌「ハーパース」の挿絵を描く。
[1951] シカゴ美術クラブでポロック、デ・クーニングと三人展開催。ブルックリン美術館付属美術学校で講師を務める。
[1956] ハーヴァード大学で1年間講義する。翌年この時の講義録「The Shape of Contents」が同大学出版局から刊行(日本語訳は美術出版社より「ある絵の伝記」として1960年に刊行)。国立芸術院会員に選ばれる。
[1957] 雑誌「ハーパース」(12月、58年1月、2月)の第五福竜丸事件を主題とするラルフ・ラップの論文「ラッキー・ドラゴンの航海」に挿絵を描く。
[1959] アメリカ芸術科学アカデミー会員に選ばれる。
[1960] 1954年に起きた第五福竜丸事件を主題とした「ラッキー・ドラゴン」シリーズの制作を開始する(1962年までにテンペラ・水彩などで11点を完成)。アジアを旅行。来日、 焼津港を調査、また京都に滞在し、日本に深い愛情を抱く。
[1961] ニューヨーク近代美術館で回顧展開催。ダウンタウン・ギャラリーで「ラッキー・ドラゴンの伝説」展開催。
[1962] スウェーデン国立美術館よりノーベル平和賞受賞者で国連事務総長であったダグ・ハマーショルドの肖像画制作を依頼される。
国際巡回展開催。
[1963] 「文字をめぐる愛とよろこび」を出版。1965年に美術出版社より日本語訳刊行。
[1965] 「久保山とラッキードラゴンの伝説」をリチャード・ハドソンと共著で出版。
[1967] ハーヴァード大学から文学博士の名誉学位を受ける。プエルトリコ芸術アカデミー会員に選ばれる。
[1968] オーストリアの詩人、ライナー・マリア・リルケの「マルテの手記」に感銘をうけた版画集「一行の詩のためには・・・」を制作。
[1969] メリーランドのロックヴィルにあるジューウィッシュ コミュニティセンターの壁画制作を依頼される。3月14日にニューヨークで死去。